「沈黙-サイレンス -」を観ました。
人々が信仰によって傷つき苦しむ中で、なぜ神は沈黙するのか
守るべきは大いなる信念か、目の前の弱々しい命か。心に迷いが生じた事でわかった、強いと疑わなかった自分自身の弱さ。追い詰められた彼の決断とは―
公式HPより
タイトル | 沈黙-サイレンス – |
日本公開 | 2017年 |
監督 | マーティン・スコセッシ |
原作 | 遠藤周作『沈黙』 |
出演者 | アンドリュー・ガーフィールド リーアム・ニーソン アダム・ドライヴァー 窪塚洋介 浅野忠信 イッセー尾形 塚本晋也 小松菜奈 加瀬亮 笈田ヨシ |
沈黙-サイレンス -のあらすじ
この物語は江戸時代初期のこと。
かつて長崎では宣教師フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が広められていたが、豊臣秀吉のバテレン追放令や江戸幕府の禁教令によってキリスト教は禁止されてしまっていた。
それでも隠れてキリスト教を信じる“隠れキリシタン”たちも多く、彼らへの弾圧は激しさを増していた。
そんな中、宣教師のフェレイラが捕まり棄教した知らせを受けた彼の弟子達(ロドリゴとガルペ)が日本へ潜入し、隠れキリシタンたちやそれを取り巻く状況に翻弄される。
原作の「沈黙」
この映画は遠藤周作の原作「沈黙」をマーティン・スコセッシ監督が映像化したもので、江戸時代初期の長崎で実際に起こったキリシタン達への弾圧をもとに描いたものです。
遠藤周作は自身がキリスト教徒だったこともあり、キリスト教を題材にした作品を多く出しています。
その中でも「沈黙」は多くの言語に翻訳され、各国で高い評価を得ているらしい。(賛否両論ですがね)
映画の見どころ
宗教が題材という事で、人の根本的な部分の対立を描いています。
それゆえに全体的に重く哀しい映画です。
映像は全体的に青っぽく、海や空、着物の藍色が印象に残りました。
磔にされたキリシタン達の描写など、本来痛々しいもののはずですが、どこか美しく感じたのはこの色合いのせいかもしれません。
見どころとしては、ブレることのなかったロドリゴの信仰が井上(長崎奉行)の巧妙な罠によって徐々に崩されてゆく。
そんなところ。
宣教師にとって逆境というのはキリストと自信を重ねることになり、さらに自分を奮い立たせる材料になりえるようですが、それが自分ではなく迷える信徒たちに向けられた時にどうするのか?
次々に処刑されていく信徒たちを救えな状況と冷酷な役人たち。
人よっては胸糞が悪くなる可能性があるかもしれません。
これを見て思うのは「結局キリスト教の救いって何なんだろう?」ってことですね。
一体どこへ向かって行こうとしているのか?
そんな疑問が残ります。
キャストは豪華なんですが、個人的には知らない俳優の方が先入観なしで入り込めるのでそちらのほうが良かったりするんですよね。
でも好きな俳優が出ていると嬉しいのは間違いないので、そこんとこは難しいです。
しかし!小汚くしたところで小松菜奈は可愛いし、加瀬亮は男前なのでちょっと腹が立ちます。
それが少し残念といえば残念ですかね。
神は沈黙してる
沈黙とはキリスト教で言うところの「神=キリスト」の沈黙を指しています。
激しい弾圧を受けながらも神を信じている彼らがいるのに、結局神は何も答えないままでした。
救いの言葉も助かる方法も何も教えてくれない。
ロドリゴの「神は答えはしない」というのがそのままですよ。
最終的に踏み絵をする間際にロドリゴはキリストの言葉を聴きますが、あれがキリストの声だったのか、ロドリゴが自分で作りだした妄想なのかは観る人によって別れるところだと思います。
私には妄想や思い込みの類だと感じました。
散々痛めつけられたロドリゴや他の信徒たちの問いかけを無視しといて「一緒に傷ついていた」は無いでしょうよ、神様。
あとは自分の信仰を公に出来ないキリシタンたちの“沈黙”も表しているんだと思います。
日本の自業自得感
元々仏教や神道が根づいている日本人が簡単に他の宗教を受け入れるとは思えないですが、それでもキリスト教に救いを求めるようになったのは、きっとそれだけ多くの人たちが苦しんでいたからだと思います。
満足とまではいかなくても、国民により良い生活を提供できていればこんなことにはならなかったはずですよ。
他国は宗教を足がかりに日本を侵略しようとしていたようですから、それを防ぐのは至極当然の事なんですが、多くの国民を処刑してしまうことになるとは、なんとも愚かな話です。
他国に付け入られる隙を作ってしまった、当時の日本の自業自得な気がします。
印象深いシーン
劇中で特に印象に残ったのは、通辞役の浅野忠信がロドリゴに言った言葉。
「あなた方は我々の言葉がうまくない」
「長年教えるだけで何も学ばなかった」
「我々の言葉、食べ物、習慣を軽蔑していた」
確かにキリスト教が真理だと信じている司祭は、日本の文化や宗教に興味があるわけではなく、信徒を増やすための拠点としてしか見ていないようでした。
人を救うとは言うものの、信仰によって得られるものは一体何なのか?
苦難を乗り越えることなのか、死んで天国に行くことなのか、神の赦しを得たところでそれが何になるのか… よく分からないです。
強く神を信じていても結局人は死に、自分も苦しんでいる。
いや、むしろあの頃の日本では信じているからこそ、そんな状態になっているわけですよ。
少なくとも棄教すれば追われることも無く生活することが出来るのに。
キリスト教の人にはまた違った解釈があると思いますが、私には何も考えずに「ただ神を信じれさえすれば赦され救われる=キリスト教」のように映りました。
本来どのように救われるのかも分かりませんが、もっと精神的なことなのかもしれません。
でも本当に救われているのであれば、苦しむ必要はないでしょう。
もしそうであれば、信徒や司祭にすらその本質が伝わっていないという事ですよね。
そうなら哀しい。
宗教的感覚について
私自身、形式上は仏教と神道を信仰している形になっていますが「信仰」という感情があるかと言われれば無いに等しく、慣習や道徳として何となく認識しているくらいです。
なので、特定の宗教を心から信仰している彼らの気持ちを想像することは出来ても、正直理解するのは難しいんです。
特にこの映画は複雑な感情を含んでいる場面が多いので、感覚としては理解しているつもりでも映画のように流れていく映像の中では瞬間的に感情を汲み取ることが難しく、一回ではとても理解しきれませんでした。
信仰というのは人間の根底に位置するものであり、それが衝突の原因になるという事は私も経験があるので良く分かっています。
ただし、信仰が非常に大切なのは分かりますが、自分や大切な人の命と天秤にかけてまで守るべきものなのか?という所はやっぱり私には理解出来ないです。
でもまぁ、そこがこの映画の真髄であり、信仰と自分や救うべき者たちの命との狭間で葛藤する彼らを感じることで「本当に大切なものが何なのか」とか「強さや正義や清らかさとは何か」を考えるきっかけになるのかなと思います。
最初は一貫性が無いキチジローの行動にムカついたりもしていましたが、終わりに近づくにつれて印象が変わっていきました。
彼の裏切りや一貫性のない行動は弱い心から引き起こされたもので、いわゆる「弱者」のように感じていましたが、神を信じつつ、自分を守れる生き方はすごくまともに思えます。
自分がもっと若いころに見ていたらどんな感想を持っただろうか。
日本に住んでいると宗教について考える機会は少ないので、学生の歴史の授業なんかで観ても良いのかなとも思いました。
映画の後に読みましたが、小説だと各場面での意味が異なる部分があります。
映画も面白いですが、まだ小説を読んでいない人は小説も読むことをおすすめします。
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