私は料理をしたり、食事を食べたりするのは割と好きな方ですが、「おいしい物を食べる」という事に関してはあまり注力していません。
食欲というのは三大欲求の一つと言われるくらいなので、根本的で強力な欲求だというのは理解できます。
しかし、食に対して何を求めるかというのは、人それぞれ趣味趣向やその強さも違うものです。
分かっちゃいるけど、でもやっぱりそれが明らかに違う人とはどこか深い関係になりづらい…と感じることが多いです。
何故そんなに“おいしい食事”をすることに固執するんだろう?
自分と感覚が違う人と食事をすると度々思う事があります。
おそらく「いつもおいしい物を食べたい」と考える人の方が大多数だと思うので、そう考えない人がいる事、またそういう人がどんな事を思っているのか、一つの参考にはなるかと思います。
※この問題を語る前に、まず「おいしい物」についての定義付けをしなければならないところですが、その定義がそのまま答えになってしまいそうなのでこのまま書きます。
食べられない物が少ない
私は好き嫌いは少ない方なので、基本的にスーパーに並んでいるような食材・食品のほとんどを食べられます。
極力遠慮したいのは、らっきょう、わさび漬けくらい。
らっきょうはあの独特の匂いと嚙んだ時の歯ざわり、わさび漬けは酒粕が苦手なので出来る事なら食べたくありません。
でも、これらも私が単においしい物を食べたことが無いだけかもしれないので「これは苦手な人でも大丈夫。」と言われれば、多分一度は試すと思います。
不味いという感情が希薄
今までの食事を思い返してみて(これは不味い)と思ったこと自体がかなり少ないように思います。
幼い頃は漠然と(これはおいしい)(これは不味い)と思っていましたが、一人暮らしをするようになり、自炊をするようになってからは、そういった感情もかなり減っていきました。
基本的に「おいしくない=不味い」と直結するわけではないので、味の良し悪しを他人に伝える時に分かりやすい表現として「不味い」という言葉を使う場合が多いです。
ただ味付けが少し濃いor薄い程度では(味付けが濃いな…or薄いな…)と感じるだけで「不味い」まで行きません。
仮に米を炊くときに水量を間違えてべちゃべちゃになったとしても、米の味はしているわけで(柔らかすぎ…、この料理には合わないな)と思うだけなんですよね。
海外の独特な味付けの料理を食べてみて、もし自分の好みに合わなかったとしても、それはそういった味付けの料理なわけであって、どんな味なのか考えを巡らせますが、不味いという感想には至らないことがほとんどです。
それは食材の味に関してもそうで、食材そのものの味なわけなので、渋かろうが辛かろうが味が薄かろうが「○○な味」という認識になります。
じゃあ、どんな時に「不味い」と思うか?
それは味覚の範囲外の味付けがされていた場合。
辛い、甘い、しょっぱいなどの味付けが強すぎると料理として“破綻している”と感じるので「不味い=食べる価値が無い」と思います。
明らかに値段と味がつり合っていないと感じた場合も(不味い料理出しやがって…)と思います。
つまり、私の中で不味いというのは単純に味や食感と言った問題ではなく、料理として調理されたものに対しての感情だという事になります。さらに言えば、食事の状況や調理について否定的な気持ちになった時の表現だと言うことです。
「自分の好みじゃない=不味い」
こういうロジックなんだと言われればそれまでですが、自分にはそう思えないわけです。
色々なおいしさ
食べ物の味を表す表現としての「おいしさ」には色々あります。
- 複数の食材と絶妙な味付けの調和したおいしさ
- 脳汁があふれるような暴力的な甘さのおいしさ
- 油ギトギトのジャンキーでとろけるようなおいしさ
- 食感やのど越しが抜群なおいしさ
- 食材そのものの素朴なおいしさ
これらはどれもおいしさの括りになりますが、刺激の強さや系統は異なり好みも人それぞれです。
おいしい料理はおいしい。
ですが、毎日おいしい料理が食べたいかと言われたら疑問なんですよね。
ちゃんとした料理だけではなくて、ただ蒸かしただけのジャガイモを食いたいときもあるし、サラダにドレッシングをかけないでモシャモシャ味わいたい時もあるんです。
逆に油ギトギトのピザや激甘のスイーツも好きですが「味<刺激」といった感じが強いので、一旦どこかでリセットしたいんですよね。
毎日毎食ちゃんと調理されたものを食べるよりは刺激の強弱が欲しいと思うし、なにより食材の味を感じたいという気持ちが強い傾向にあるようです。
ご飯をそのまま食べておいしいと感じる人もいれば、おかずと合わせて初めておいしくなるという人もいます。
水でレンチンしただけのオートミール、無糖ヨーグルト、切っただけのピーマン…
これらが苦手な人もいますが、おいしいと感じる人もいます。
でも、そう思うと同時に、自分はおいしさへの感動が欠如しているような気もします。
「これ美味しいから!!」と言われたものがそんなにおいしくなかったり、むしろ、おいしさでテンションが上がること自体が稀です。
「わぁ!おいしいー!!」よりも
(うむ、これはおいしい… おいしいと言える。)
となります。
味への探求心
おいしい物に興味が無いわけではないんです。
ただ過去に食べてみて「おいしい」と分かっているものをわざわざ選ばない時はあります。
手に取って、口へ運んで、咀嚼して、味わって…
満足するだろうなぁ。
しかし「結果が既に分かっているおいしい物」を味わう事を否定する気持ちが出てくるんです。
逆に考えればそれは「新しい味」を味わう機会を失っているわけですから。
確実に味が予想でき、かつ自分の好みに合わないであろう物は選びません。
しかし、ちょっと想像つかない物であれば、好みではない可能性があっても試してみたいと思うのが人情じゃないですか。
ただ、結構な確率で裏切られることの方が多いですが…
毎回同じものを頼む人からすれば理解しがたいかもしれませんが、新メニューにチャレンジする人もこのような傾向が強いと思います。
「おいしい物」を食べたいとは思いますが、「もしかしたらおいしい物」の方がより興味を惹かれる。
そういう事ですね。
まとめ
食と言うのは、生きるために必要な事であると同時に、その人物を形成する内のかなりの比率を占めるものだと感じています。
欲求であり、生活スタイルであり、娯楽であり、コミュニケーションツールであり、ファッションでもある。
満足感を感じるためにお腹一杯にしないといけない人もいるでしょうし、食べることを人生の目的にしている人も多いと思います。
私の場合は味のキャパが広めに設定してあり、かつ色々な方面の物を食べたい欲求が強いように感じます。
色んな考え方があるのは興味深いと思う反面、やはり自分とかけ離れた好みを持つ人とは分かり合う事は難しいんじゃないかなと。
そう感じるわけですね。
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